ある夜のバーでの話。最近毎晩のように飲みに来るDさんは人間関係で悩んでおり、特にグループ内での自分の扱いに対して疑問を感じているようです。彼曰く、誰も自分のことを分かってくれていないばかりか、自分が好意、誠意、もしくは愛をもって行った行動に対して、見返りがないというのです。もっと簡単にいうと、これだけ私はグループに貢献しているのに、誰も自分のことは気にかけてくれてない、というか「あなた達、俺のこと友達っていうけど何も分かってないよね?」ということです。
見返りがないから自分の存在意義が薄れていってしまう。例えば夫婦関係でもそう。私はあなたのために料理教室まで行って苦手な料理を勉強し、さらには嫌いな義理のお母さんにあなたの大好物の肉じゃがの作り方を教わって、スーパーで奮発してかったお肉を使って料理したのに、美味しいの一言もないの? そんなことが溜まりに溜まって、いつか大爆発。よくあるセオリーです。
下手な例を上げてしまいましたが、要するに交友関係でも夫婦間でも職場でも、どこでも起こりうるのです。(ということを伝えたかったのです。)
かのマザーテラサは無償の愛で全てを受け止めたそうですが、聖人でもない、俗物の塊(特にわたくし)である人間にも同じことはできるのでしょうか。どんな嫌なことも、どんな理不尽なことも、ニコニコしながら愛で包み込むことは、この現代社会では容易いことではありません。
Dさんと肉じゃが奥さんの共通する点は2つあります。ひとつは愛をもって人と接した点。ふたつ目は、それにたいして見返りを求めた点です。ここで重要なことは半分は「マザーテレサってた」ということです。人間が聖人に近づいたのですから素晴らしいではありませんか。ふたつ目は悪いように聞こえますが、悲観的にとらえず、「だって人間だもの by 相田みつを」で片付けましょう。誰しも自分の愛に気付いて欲しいものです。片思いが辛いのと同じで気付いてもらえないことは自分の存在意義すら分からなくなってしまいます。
なんだかやるせない気持ちになりますが、こんなとき私はこう思うようにある友人から教わりました。
「愛は与えるものでも、受け止めるものでもなく、自分の中で育むもの。」
日頃から愛に満ちていれば、気付かないうちに愛を与えることができるし、愛を育んでいる最中であれば、たった少しの愛にも気がつくことができ、大きな愛として受け止めることができるというように解釈しています。
などと偉そうに書いている私ができているんかい?というと、全くマザーテレサとは程遠い性格をしておりますので、どうぞ深くとらえず、たわいもない俗物の人間が愛を語ってみたしょうもない話として納めてもらえれば幸いです。
草々不一
文 / RYO KANEKO