【連載エッセイ⑦×大坪志穂】祖父のガン闘病と命の選択~緩和ケア病院へ面接に行く(前編)~

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祖父のガン発覚から2年半、恥ずかしながら私は祖父の病気に目を背け続けてきた。大好きな祖父にまさかそんなこと起こるはずない。ただただ信じたくなかった。

そんな私が今ここに、「28歳、イヤイヤ期、卒業します!」と宣言したい。

仕事で祖父と同じ病気の方とお話することも多いせいもあり、これまでは、どこか薬剤師として接している、という感覚で一線を引いていたようにも思う。

3年前までは身近には起こり得ない気がしていたし、自分とは別のところで起きている話題としか思いたくなかった。

家族にそんなことが起こったら、なんて想像することすらしなかった。

しかしいざこうして、家族がガンになってしまうとどうだろう……。

一気に現実が正面から押し寄せてきて、避けられない状況に目を瞑りたくなる。なんとも情けない。薬剤師だのなんだの、どの口が言っているんだと、1人の人間として未熟すぎる自分に呆れ果てて苦笑いしかできない。私はもう28歳にもなったのに、しっかり現実を見ると崩れてしまいそうで、悲しくて、家族で楽しい時間を過ごしているその瞬間しか見ることができていないのだ。

そんな私とは違い、ずっとそばで見守ってくれている祖母や母、毎月病院に付き添う叔母には、辛いのに正面から向き合ってくれていることに感謝している。

あるとき、母がポツリと言った。「いざというときはさ、私なんだよね。」と。この言葉に隠された意味が、私にはわかる。

叔母や私は関東にいるため、日々の祖父の様子は、電話をする他は母づてにいつも聞いている。

これから少しずつ弱っていく様子を、母は実際に自分の目で、毎日毎日見ていく。いざというときが来たら、祖母を落ち着かせ、私たちにその連絡をするのも母だ。

緊急の時には特に、冷静な判断や行動も、自分がしなければ、他に頼りはないと思っているのであろう。実際、熊本地震のときもそうだった。遠くにいる叔母や私には、物理的にも対応が難しいことのほうが多い。

こうやって、私と叔母がエッセイで文字にするよりもずっと、母は、目の前で起こる毎日をリアルに感じているはずだ。

文字にできるほど単純で美しいものではなくて、母にとってはこの現実がもっと日常的であり、もっと近くて生々しい。祖父を取り巻く環境の中どこにでも、毎日自分の存在を置いておくのだから。

「1日1日を大切に」

と、母はLINEでも、口頭でも、よく言っている。

その1日1日を、今も必死で踏み締めて歩んでいるからこその一言なのだと感じる。50年以上、一緒に生きる自分の親が、日々変わっていくのを目の当たりにするのは、辛いなんて言葉では済まされない感情であろうが、それだけではない。娘としての使命感もあるように見える。

あの明るい祖父が珍しく身体のことで落ち込みそうなときは、場を和ませる優しさと笑いで、いつも通りを装い接し、励ます。母の言葉のパワーは凄くて、不思議ときっと大丈夫だと思わせてくれる。私自身も今まで何度も救われたが、祖父にとっても、母の日々の温かさが支えになっているはずだ。

祖父は、数ヶ月に一度私に会うと、母への感謝を毎回私に伝えてくる。

本人に直接感謝を伝えているのかは知らないが、近くに当たり前のようにいる家族にわざわざふいに「ありがとう」を伝えるだなんて、なかなかしないことだろう。家族ってどこもそんなもんだろうなと思っている。

だが、言葉にしなくても互いに伝わっている何かがあるはずだ。 

そう考えると、祖父がいなくなることが怖くて、どうにかして気を紛らわしたいと思う私は、昔と全く変わらない子どものままで、今は遠くに住む孫という立場に甘えているだけなのかもしれない。

いつか、このエッセイが完結する頃には、祖父はこの世にはいないのかもしれないけれど、私がどのような気持ちでいることを、祖父は望んでいるのだろう。少なくとも、今のままでいることは望んではいないということは分かる。

間違いなくカウントダウンは始まっているが、突然のお別れではなく、与えられた時間があるというのは、まだ恵まれているほうであろう。この残された時間で、祖父が願う通りの、私たち家族の姿に少しでも近づけるのであろうか。

2021年5月。母と叔母とのLINEで、突然『緩和ケア』というワードがでてきた。私はその話題に返信ができなかった。

仕事柄、そのワードを聞くことが他の人より多い私は、これからどのようなことが始まるのか、いまどういう状況なのか、なんとなく悟ってしまったのだ。ここまで来てまた、見ないふりをする私。28歳の、イヤイヤ期。心底呆れる。

ほぼ同じタイミングで、叔母がこのエッセイを書くという話を聞いた。いよいよ、自分も逃げてばかりではいられないときが来たと思った。このエッセイが、祖父の生きた証となり、私たち家族が祖父を大切に想う、これからも忘れてはいけない感情の記録となるのなら、自己満であれ、私も記しておきたいと思う。

これが、自分の心の整理となるとともに、どの家族にも訪れるであろう同じような苦悩の助けになれば、苦しみながら言葉にした意味が見出せる気がする。

そしてこれを機に、私自身も祖父と家族のこれからに向き合う覚悟を決め、その一歩として、緩和ケアを行うために今後お世話になることになる病院の面接に同行することにした。

さあ、やっと卒業だ。私も一緒に、1日1日を大切に。