【連載エッセイ⑤×根津孝子】父のガン闘病と命の選択~整理のつかない心のままで~

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(連載エッセイ④からのつづきです。)

三年後のパリ五輪と命の行方。人生いろいろ。

2021年8月8日。一年越しで開催された東京オリンピックが閉会した。

時差無しで観ることの出来る自国開催のオリンピック、思っていた以上に楽しみ、過去のどの大会よりも長時間にわたり、画面の前で過ごした17日間であった。

閉会式が行われている間ずっとテレビをみながら、熊本に住む姉、横浜に住む姉の一人娘の姪と3人でグループLINEをしながら互いに好き勝手な感想を言い合い、その時間を共に過ごした。

閉会式も終わりに差し掛かり、画面が次の開催地であるフランス、パリへと切り替わる……。

“洗練されたパリ”という強いイメージも先行し、画面に映し出されたパリの映像はとにかくすべてが素敵に見え、「わー、いいなぁ、パリ!」「さすが、パリ!かっこいいね~」と、私はLINEメッセージをした。

すると姉が、「3年後、元気で迎えようね!」 というメッセージを送り返してきた。

姪は、「そうだね!」とそれに返し、私は「まかせて~!」と書かれたスタンプを送り返した。

3年後の約束……。「まかせて~!」と返信をしたのだけれど、人ってどれくらい先までの約束であればまず破らずにすむのだろうか?と、ふと思った。今の私は普通に元気で、何となく漠然とではあるが3年後もこの世にいて、あまり今と変わらない生活をしているような気がしている。でも、3年後のことなど実際にはわからないし、希望的観測に過ぎない。

そして今、例えば命に関わる病気と闘っている真っ最中の人、つまり父は、どんな気持ちでこのパリの映像を観ているのかな?と思うと少し切なくなってしまった。

すると、そんな私の心情を推しはかったようなタイミングで、姉から「お父さんとお母さんはよく、オリンピックが終わるまで死なれん、と言ってたけど、1年延期になったから、1年得したね!」というメッセージが送られてきた。

私はその姉からのメッセージにとても救われた気がしたのだった。

翌朝、両親のところに電話をした。すると、父はオリンピックの閉会式をテレビで観ながら、眠ってしまったと話していた。どうやら心配無用?だったらしい。なぜだか少しほっとした。母の方は最後まで観たようで、「パリの様子はすごかったね~!」と言いながら、8年前に家族で行った、パリ旅行の思い出話に花に咲いた。

私は8年前の、そのパリ旅行のアルバムを開き、安いツアーで強行軍の旅だったけれど、あの時家族皆でパリへ行ってよかったと振り返った。

いろいろ起こった旅先での小さなトラブルが、パリ観光より楽しい思い出話として盛り上がるのは、一緒に過ごした時間があってこそのことだ。

3年先のことなど誰もわからない。コロナがそうであったように……。

一日一日を丁寧に生きて、気が付いたら3年経っていたね、そんなふうに3年後を迎えられたらどんなに幸せなことだろう……。今、心からそう願う。

さて、前回、一喜一喜と表現した父の治療の経過だが、確かに治療が始まって数か月、前立腺ガンを示す数値は正常値までになった。しかしやはり、良いことばかりは続くことはなく、投薬による治療が始まってから数か月後、また数値は上がり始め、投薬に加え、男性ホルモンの分泌を抑制する皮下注射も月一回のペースで始まった。

そして、そこから数か月が過ぎた頃には又、既に骨に転移しているガンの進行を遅らせ、骨が弱くなっていくことを予防する効果が期待できる点滴も治療に追加された。

副作用として、さほど酷くはないが足の浮腫みや、女性の更年期の症状に似たホットフラッシュがある。しかし、次第にそれにも慣れ、生活自体はこれまでと変わらず、元気そうにしている。

また、薬は飲んでいるうちに効果が薄れていくため、血液検査の数値の変化を鑑み、主治医は薬を変えていった。現在までで、4、5種類は薬が変わり、途中、極端にムカつきの副作用が出て食欲が落ちてしまう薬もあって、その場合は元の薬に戻しもした。

ひとことで言うと、一喜一喜から徐々に、一喜一憂する闘病生活へと変化していった。というのも、初めのうちは、薬を変えると数値が下がってくれていたのだが、そのうち、思ったほど数値が下がらなくなり、次第に、数値が下がることよりもむしろ、月一回の血液検査で、一カ月前からどれくらい上がったか、という、上り幅を気にする生活になっていったからだ。(現在もその状況である。)

本人の体調自体は落ち着いているのだが、やはり、一連のホルモン療法による影響により、筋力の衰えは否めない。ぱっと見の病人ぽさはさほど感じられないが、明らかに腕や足の筋力は落ちている。高齢なので、ガンだけでなく、フレイルによる転倒なども気を付けるようにと、主治医から話があった。

そして、ガン発覚から1年が過ぎた頃、次の段階の治療として、主治医に提案されたのが、所謂、「抗がん剤」による治療だった。

「抗がん剤」……。

診察室で聞いたその言葉は、私たちの心をとても重くした。私と母は父と一緒に診察室に入っていたのだが、ただ黙って父の決断を見守るしかなかった。

主治医から一通り抗がん剤による治療の説明を聞く。

すると、父は最後に主治医にこう言った……。

「先生、私は抗がん剤はしません。80歳まで生きましたけん、満足しとりますけん……」と。その口調はとても穏やかで、優しい笑みを浮かべていた。

私は小さく頷きながら、父と母と目を合わせて微笑んだ。どこかでそれは、間違った選択ではない気がしたからだ。

主治医から「ご家族はそれでいいんですね?」と聞かれ、母は、「主人がそう申しておりますので、それで」と言い、私は「はい」と小さな声で応えた。

この父の決断が何を示すのか、そこにはニつの局面があると思う。主治医からすると、積極的な治療をしない、つまり抗がん剤を拒否したことは、延命は諦める、ということを意味する。

しかし、もう一つの局面があることを忘れてはいけない。

父は、残された人生を”積極的に生きる”、という選択をしたのだ。

病院からの帰り、車中で父は「俺は、病院のベッドにずっと寝とかなんとは嫌だけん。性に合わんもん。なっだけ、普段通り、動けるうちは動いて、もちろん最後は病院のお世話にならんといかんばってん、それまでは、今ん通りがよか」と言った。父の性格をよく知っている母は、「大丈夫、好きなようにしなっせ」と言い、私は、「もしかしたら、抗がん剤ばしたら逆に弱るかもしれんしね、よか選択と思うよ」と言った。そしてそれは私の本心だった。

私は今、高校野球のテレビ中継を観ながらこのエッセイを書いている。 地元、熊本工業高校の第一試合だ。(2021年8月16日)。途中、父に、『高校野球、観てるよー!熊工だー!』とLINEメッセージを送ると、それをみてすぐに電話がかかってきた。勿論、父もテレビの前で観戦していた。

テレビで高校野球の中継を互いに観ながら、甲子園談義に花が咲いた。父は高校球児で、ピッチャーをしていたのだ。そのことは勿論知っていた。しかし、これまであまり当時のことを父から聞いたことがなかった。なぜだろう?あんなにおしゃべりが大好きな父なのに……。驚いたことに、どうやら、父は地方大会で準決勝まで勝ちのぼり、甲子園まであと一歩、というところまでいったのだそうだ。最後の試合も相手チームを2安打で抑えたのに、負けてしまった、と、試合の詳細を少し自慢げに話していた。その記憶はとても鮮明で、電話の向こうの声がとても明るかった。

我が親のこと、よく知っているようでまだまだ知らないことが沢山あるのかもしれない……。

ひとしきり父と話をした後電話を切り、改めてテレビの向こうの高校球児をみると、高校球児だった頃の父の姿と重なってみえた。