【連載エッセイ⑪×大坪志穂】祖父のガン闘病と命の選択~日帰りで熊本へ~

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あの連絡から2日目。私が熊本に日帰りするまで、あと2日だ。

夢を見た。祖父の夢。

「志穂さんはいつ、帰ってこられるとかい?」

少し痩せたけど動きは普通。なんだ、元気じゃんと安心している夢の中の私。

私が帰ってくるのを楽しみに待っていて、予定を聞いているようだ。

いつも通り、お喋りな祖父。それを笑って見守る私。全部いつもと同じ。

私の願望が夢に映されていたのかもしれない。

目が覚めリアルな私はいつも通り仕事をする。いつもと同じ道を歩き、いつもと同じ、聴き慣れた音楽を聴く。自分を落ち着かせるために。

今日も特別じゃない、いつもと変わらない日常だと思いたかった。何も起きない平凡な1日だと。

あの連絡から4日が経ち、熊本に日帰りする日が来た。

チーム孝二Tシャツを手に取る。胸元の祖父の笑顔を見ながら、不安が押し寄せた。こうやって今日も笑ってくれるだろうか……。

まだ外は薄暗い朝方に家を出た。日帰りだ。今日の夜にはまた、この部屋にいる。

今日1日を終えた私は、どんな気持ちでここに戻ってきているのか想像もつかない。

熊本に着く頃にはすっかり日は登り、もう秋の空をしていた。うろこ雲の隙間に、阿蘇の山々とあの白い風車がまた見える。

緩和ケア病院に同行した帰りにも見た、あの風車。

あの時、次にこの景色を見る頃に祖父はどうなっているのか?と考えたのはまだ記憶に新しい。しかし同じ阿蘇の景色も、あのときは全く違って見える。

美しい秋の雲の模様であるはずなのに、季節の移り変わりを直視したくなかったし、とにかく時間が進んで欲しくないという感覚だった。

関東よりも熊本の日差しは強い。緊張と不安で胸にずっと引っかかるしこりのようなものは、こんなに暖かくても溶けることはない。

一人、熊本市内まで移動する道のりはずっと悶々としていて、突っ伏していた。

実家に帰る途中、母の職場を少し見に行った。私が学生の頃の、母と今の母は少し違う。

あの頃よりも仕事への使命感というか、覚悟が見える。

祖父がこうなって、もう自分が祖父のために、会社のために、やるしかないと気持ちを固めたように見えた。

こんなにも堂々とした母の姿は、かつて見たことはあったであろうか。私が上京して知らない間に、祖父は安心して母に仕事を任せていたんだなと目に見えてわかった。

祖父母の家に着いた。ドアの向こうには祖父がいる。

できるだけ、気丈に。いつも通りでいないと、祖父を悲しませる。そう思いながらドアを開けた。

「志穂さん、会いたかったよ〜」

両腕を前に出して、祖父は第一声、そう言った。

介護ベッドに横たわり、左腕は点滴に繋がれていた。祖父の顔を見ると、ふと涙がこぼれた。祖父も、涙ぐんで笑っていた。

差し出された手を握り返しながら、

「もう、びっくりしたよー」

と言って、私は無理にでも笑った。

互いの笑顔とは裏腹に、私たちはその手をずっと離すことはなかった。死への恐怖と、生きて会えた安心を物語っていた。そのまま2人でしばらく話していた。

「俺もびっくりしたったい、急にこぎゃんなってからね。見てごらん、痩せてしもて……」

そう言いながら、細くなった自分の脚を見せていた。

祖父は今まで人の1.5倍は食べるような、大食漢気質であった。私が小学生の頃は、お正月のお餅は一食で10個も食べていた。お酒が飲めない分、たくさん食べる。

急に食欲が落ちて痩せるというのは、そんな祖父にとっては今まで感じたことのない体調変化だ。筋肉も落ちて、見た目が変わり、ショックを受けているようだ。

祖父はがんの治療を受けていた病院で、在宅診療に切り替えるように言われたのだそうだ。

祖父にとっては見放されたような感覚もあったらしい。

色々な治療をしてきて、薬も効かなくなり、事実として在宅しか選択肢がないのであろうが、いざ言われてしまうと、やはりすんなりとは受け入れ難いものだ。

「もうそろそろ終わりか」と、その日から見る見るうちに気力もなくなり食欲もなくなった。栄養も取れずに痩せて、気持ちも滅入っていったそうだ。

少し動くだけで息切れするようだったので、私と喋っているときも、少しずつ休憩をとる。

「疲れた?」

と私が聞くと、

「ううん」

と首を横に振り、また喋り始める。話したい気持ちが溢れている。

「静世さん(母のこと)にもたくさん心配ばかけとるだろうけんなあ……」

私の母の心配をしたり、「たかちゃん(叔母のこと)が来らしてから少し落ち着いてきた」と、叔母が来てから少し体が回復してきた様子も教えてくれた。

「もう少し元気のあればな、どこでんあんたちを連れてくとばってんな……」

(もう少し元気があれば、どこへでもあなたたちを連れて行くんだけどな……)

と、切なそうにつぶやく。

色んなところに旅行したが、やっぱりまだまだ家族でどこかに行きたかった。心の底から悔しそうで、このときの声はとても弱々しかった。天井をぼーっと見上げる顔はすごく悲しそうで、私の目に焼き付いて離れない。

家族へ、思い残すことがたくさんあるようだ。

言わなくても分かることはあるが、生きて、伝えてくれる言葉はちゃんと覚えておこう。

点滴も半分ほど身体の中に入ってきた頃、リビングにはお昼ご飯の準備が整っていた。

食べられない身体、というものにすごく敏感になっている祖父。でも、今日は食べられそうだと言いながらテーブルについた。

今日は、おかずを少しとお漬物を食べ、白ごはんも一杯は食べた。

空になった茶碗を見て、祖母が拍手をしていた。ここ数日で久々に食べられたのかもしれない。祖母もほっとしている様子だ。

「夜は焼肉ば食べに行くばい」

と祖父が言った。

私たちは耳を疑ったが、本人としては今日はとても調子がいいらしい。

食べられるうちに食べてもらいたいとは思うが、家族がびっくりする様子を見ていると、食欲がなかった数日前からは考えられない一言だったようだ。

点滴で栄養を入れているけれど、やっぱり口から自らの力で食べることが一番。訪問診療の先生からもそう言われ、祖父もそれを信じて一生懸命食べていた。

夕方まで、私は祖母と2人で話していた。ここ数日の様子を教えてくれた。

叔母が来る前まで、祖父はとてもピリピリしていたらしい。

母もそのようなことを言っていた。祖父は、何かしら目につくことにいらついていたそうだ。身体が思うようにならないもどかしさから、何かしらに当たるしかなかったようだ。

熊本地震のときもそうだったらしい。不安から、きつく当たることがあった。しかし家族は、奥底にある心を十分、理解していた。

そばにいる祖母や母は、存在として近すぎて、当たられることも多かったが、隠された気持ちはきっと、しっかりと汲み取っている。

祖母が言うには、叔母が来てから、そのようなことも少し落ち着き、ピリピリが緩和されたそうだ。叔母は細かいことにも気付く、勢いのある行動派なので、それが祖父の助けになっているようだ。祖父母の世話をし、健康的な食事や家の環境を整えてくれている。

夕方になると、祖父はいつも体調が悪くなるのだそうだ。昨日の夜ご飯は全く食べずに寝たと聞いた。しかし今日は、夕方になっても、まだ食べる気があるようだ。

実際、夕飯に出かけた焼肉やさんでお肉もちゃんと食べていたし、私が好きな辛いクッパも、取り分けたら器一杯は食べていた。

「昨日とは別人よ。私が大袈裟に具合悪いと言ったみたいじゃん。」

と、ほっとして母が笑っていた。

「志穂さんに元気をもらった~。」

祖父はそう言っていた。

こんなにも激変するとは、病は気から、とはよく言ったものだ。

私の見送りに空港まで祖父は来たいと言ったのだが家族みんなでそれは止めた。

でも、祖父の気持ちは分かる。次、元気に会えるか分からない。話せる状態なのかも分からない。もしかしたら孫の私のことも、もう分からないかもしれない。そう思うと離れるのが惜しいのだ。

「離れたくなか〜」

と、祖父は名残惜しそうに言っていた。

「大丈夫だよ、また会いに来るからね」

生きて、まだ私のことが分かるうちに絶対に会いに来る。

まだ聞きたいことがたくさんある。やり残したこともまだまだある。

待っててねと伝え、母と2人で空港に向かった。

空港では、3〜4歳くらいの姉妹が走り回っていた。

「私があのくらいの歳のときにはすでに、みんな一緒にいたんだもんね、不思議な感じ。」

と、姉妹を見ながら私はつぶやいた。

「それが家族っていうものだよ」

母は言った。

家族。何があっても、何年も繋がり続けるこの関係は、一番深くて長くて尊い。今日私は改めてそれを実感した。

この家族の絆が、時に奇跡を起こすのを、私はこの目で見たのだから。

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