【連載エッセイ⑲×大坪志穂】祖父のガン闘病と命の選択~祖父が教えてくれたこと~

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祖母「走馬灯のように思い出しちゃうのよね。昔のことも最近のことも。」

そう言いながら、ここ数日、祖父とのたくさんの思い出を語ってくれた。

祖母「私たち、大喧嘩もだいぶやらかしました。」

母「はい、存じ上げております。」
そう言って互いに笑っていた。

私ですら、たくさんの祖父母の夫婦喧嘩を見てきたけれど、私の知らない、大きな喧嘩も数多くあったのだと思う。
家中に声が響いて、まただよ…と思っていたが、今となっては、こうやって良い思い出となるのだから、何があっても離れず、連れ添うことが、人生を終えた時に大きな財産になるのだと、祖母の穏やかな顔を見ながら思った。

祖父にこじゃこじゃと文句を言われた時は、「あんまり愛しなすな!(そんなに愛さないでよ!)」と、反対語として言っていた。
見ている周りは笑っていたが、今となっては本人達にとっても良い笑い話だ。

祖母は昔のことを振り返り、私たちが生まれる前の、祖父と自分のことを話した。祖母は若い頃、たいそうモテたそうだ。

「合コンに行ったら、5人中4人にモテていたらしいよ」と母が言った。

祖母「そぎゃんななかばってん(そこまでではないけど)、モテたのは確かね。」胸の前で両腕を交差させ、得意げに微笑む。

祖父とは紹介で出会い、何人かで集まった中の1人だったそうだ。

祖父は祖母に、当初からベタ惚れだったそうだ。

母「ベッタベタよ、ベッタベタに惚れとんなはったらしい(惚れていらっしゃったらしい)」

そして、付き合う前、一度は祖父を振った。
祖母「やー、すみませーん、ごめんなさーいって言ってから、お断りした」

なんだかものすごく軽めに振ったように聞こえた。
モテ女の飄々とした扱いにも祖父は屈しなかったようだ。
正直最初は、祖母としては全く乗り気ではなかった。

何度もアタックした最終兵器として、祖父の父が、祖母に対してお手紙を送ってきたそうだ。
息子とどうか付き合ってやってほしい、付き合えないなら生きていけないみたいだ、といった内容だった。
そこまでして、祖父は祖母を手に入れたかった。

付き合った直後、祖母は、ああこの人でよかったと思ったそうだ。祖父は祖母を、とても大事にしてくれたのだ。

当時、祖父は玉名(熊本県の北の方)、祖母は八代(南の方)に住んでいた。

玉名で会った後、八代へ向かう電車の乗り場まで、祖母をお見送りをしていた祖父は、「八代までついて行くごたった(ついて行きたかった)」
と、80歳を越えたここ最近も、懐かしんで職場で話していたらしい。

職場の皆さんが、「娘さん(母)の前で、そがん惚気たらいかんですよ、社長」
と、口々に言うほど、「俺が惚れた女ぞ。」と、祖母についていつも自慢していたそうだ。

祖母は、どちらかというとお嬢様育ちだった。「お嬢様を好きになっちゃって、おじいは大変だったんよ」と、叔母は笑っていた。

祖父は祖母に対し、「あたに貧乏させちゃいかん」と言いながら、一生懸命働いていたそうだ。

祖父が会社を作るときも、祖母は何も言わなかった。ただ家で待ち、支えた。
働く能力もないので、それしかできなかったと言うが、祖母の存在自体が大きかったのだと思う。

語ることが好きな祖父は、家族全員が口を揃えるほど、「太陽のような人」で、明るかった。
何か気になると見に行かないではいられない、すぐ外に出るし、野次馬で、家族に「ほぼおばさん」と言われていた時期もあったな(笑)。

また、少年のようなところもあって、楽しむ時は全力で楽しんでいた。
旅行が大好きで、国内でも海外でも、本当に色んなところにみんなを連れて行ってくれた。
だからこそ、亡くなる直前まで、
「もう少し元気のあればな、どこでんあたたちを連れてくとばってんな…(もう少し元気があれば、どこへでもあなたたちを連れて行くんだけどな…)」(エッセイ⑪)
と呟きながら、悲しそうに天井を見上げていた祖父の姿は、私の記憶からは消えないのだ。
悲しいからあの瞬間を忘れたいのではない。それも祖父が一生懸命生きていた証なので、これからもずっと覚えておく。

海に行くと、日焼けが気になる祖母や母に対し、何で海に入らないのかと拗ねていた。
せっかく連れてきたのにと言いながら、叔母や私と海に入って海岸で遊び、誰よりも楽しそうにはしゃいでいた。

お酒は飲めない代わりに、食べることが大好きで、とにかくたくさん食べていたし、色んな美味しいお店にも連れて行ってくれた。
「志穂がうまそうに食わすけん、嬉しか〜」
と、私が食べる姿を見て、いつも喜んでいた。

車も好きで、それは母にも遺伝した。

母が赤ちゃんの時泣いていると、祖父は母を車に乗せ、泣き止ませるために夜中にドライブをしていた。

叔母の受験のときは祖父が迎えに行き、試験を終えて車に乗り込んできた瞬間が忘れられないと、よく話していた。

子育てでもきっと、祖母と奮闘しながら、娘2人にとっての大事な場面にはいつも、祖父がいたのだろうなと思う。

私にとってもそうだった。
父の単身赴任が長かったので、私にとって、祖父は父親代わりのときもあった。おそらく、他の家庭の祖父と孫の関係より、私の場合は更に深く、濃かったと思う。
家も歩いて2分ほどで、とても近かったので、週に何度かは必ず一緒にご飯を食べていた。

私が変な方向に道を踏み外しかけると、厳しい言葉をかけることもあった。
大事な決断のときは、祖父の一言を聞いて、納得して方向転換することもあった。

亭主関白のように見えて、家族を想い、私達をとても気にかけてくれていた。

祖父「志穂が、俺が我が家の主役だと言わすとが引っかかっとるとたい。
楽しく生きて、自分1人では人生満足しとるばってんな。自分1人だけの命じゃないということたいな。きっと、俺がいなくても、あたたちはちゃんとやっていくだろうばってん、やっぱり俺がおるのとおらんのとでは、また違うだろうたいな。」

最後に生きて会ったとき、祖父はそう言って私たちを気にかけていた。

「そうよ、だけん、生きとるだけでいいんですよ。」
と、あのとき祖母は言っていたが、
その身体が無くなってしまった今は、祖父の残した言葉ばかりを振り返っている。

最近祖父が言っていた言葉の中で祖母が特に嬉しかったのは、

「あたが嫁に来てくれたけんよかった。」
「あたのおかげでここまで仕事も頑張れた。」
「喧嘩もたくさんしたばってん、離婚しようと思ったことは一回もなかった。」

ということだそうだ。

これだけ長い期間、良い時期も悪い時期も一緒にいて、何があっても離れたいとは思わなかったというその祖父の言葉を、祖母は宝物のように思っている。
これから生きていく上で、どれだけの励みになるかと、目を潤ませる。
葬儀で久々に会った親戚夫婦の旦那様にも、奥様には言葉で感謝を伝えるようにと言っていた。

祖父は、想うだけでなく、言葉にして祖母や私たちに伝えてくれた。
言わなくても伝わることは、確かにある。
長く共に時間を過ごせば、通じるものも間違いなくある。

それでも、声にして伝えてくれた言葉の一つひとつが、残された人にとってはこのように、守るべき大きな財産になっているのだ。

こう自分に伝えてくれたのだと、そこに嘘や思い込みはないと、信じることができる。
時には、その人がいなくても、その言葉に救われて、縋って、少しずつ前を向いて生きていくことだってできる。

思っているだけでは伝わらないこともあるし、言葉にすることで、想いは人の心に刻まれる。
それをこの目で、私は見ていた。

祖母「お父さんがね、あたと60年連れ添えてよかった、あたと一緒の墓に入りたいと言ったのよ。」

ほら、こうやって。
自分を想ってくれていたということを、偽りなく信じていたい。祖父が口にした言葉を頼りに、たまにはそれに縋って、これからの祖母の生きる道は続いていく。

私たちも、そうだ。
祖父に最後の電話で言われたことを心に留めておきたいと、私も思う。
母や叔母も、きっと何かしら、祖父に言われたことについて、守ろうと思っていることがあるはずだ。

祖父は生前、緑豊かな自然の景色も綺麗だなと思うけど、やっぱり自分は都会の景色が好きだと言っていた。
私が最後に生きて会ったときも、そう言いながら窓の外を眺めていた。
「この中で自分はちゃんと生きているんだなーって思うでしょうが。」

祖父の言う、「生きている」が叶わなくなっても、この都会の景色は変わらない。
祖父が好きだったこの景色は、いつしか私も大好きになった。
私はこれからも毎日、この景色を見て、祖父と同じように「生きている」を感じ、祖父を思い出す。

苦しい時は、祖父を思い出して奮い立たせ、判断に迷うなら、この景色を見て祖父に語りかける。

今までかけてくれた言葉を紡ぎ、辛い時にはそれに縋って、踏ん張って、祖父に対して恥ずかしくない人生にする。

祖父は、私に「おじいは一家の大黒柱だ」と言われたことで、「自分だけの命ではない」と、亡くなる数ヶ月前に気付いた。

たぶんそれは、残された私たちの命にも言えることだ。「誰かを生かし、誰かに生かされている命」だ。その誰かとは、生きている人かもしれないし、亡くなった人かもしれない。

生きるのが辛くなるときも、確かにあるだろう。もういいやと、諦めたくなるときもある。
いつも笑ってるねと言われる私にだって、そう見せているだけで、もう疲れたと思うこともある。

それか、数ヶ月前の祖父のように、自分の人生を十分楽しんだから、もうこれで満足だと思う人もいるだろう。

みんなそうだと思う。
言葉を選ばずに言うと、それらは極めて自分本位な考え方な気がする。自分だけが大事、自分だけが可愛い、自分だけが辛い、自分一人の世界、それらだけが頭にあって、誰かに生かされている実感がないのかもしれない。
どれだけ人生を諦め始めたり、もしくは満足しきったとしても、私達が忘れてはいけないことは、自分一人だけの命ではないということ。

残酷な世の中だと思っていても、人を大切にしていればいつかきっと、世の中捨てたもんじゃないなと、思える時がきっとくる。
それが、今すぐではなく、何十年後かもしれないし、死ぬ間際かもしれないけど、それでもこの世に与えられた命を精一杯全うするのが私たちが生まれたときからの使命だと、祖父の死を見ていてしみじみ思う。

死にゆく人に対し、代わってあげたいだなんて、そう思うことは、彼らにとって1ミリも嬉しいことではない。
葬儀のときのお坊さんが私たちに語ったように、その人は、大切な命を生き抜いたのだ。
残された我々も、自分の命を大切に生き抜かなければいけないということを、思い出させてくれているのだから。

だから私は、この命を目一杯生きる。祖父が今、そうしろと教えてくれているから。
そしてこれから60年後くらいに祖父の元に行ったとき、
「全部見とったよ。よう頑張ったね。大したもん!」
と、また言ってもらうのだ。

生き抜こう、一緒に。1人じゃない。
自分だけの命ではなく、誰かを生かし、誰かに生かされているのだから。
たまには歩くスピードを緩めてもいいし、祖父のように止まるのが怖ければずっと走り続けてもいい。生きるのってしんどいねと、たまには弱音でも吐きながら、もう人生満足かもと踏み留まりながら、自分のためだけではない、それぞれのゴールに向かって一歩ずつ。
きっと、まだ生きていてよかったと思える日が、これからたくさんあるから。

私も祖父のように、損得ではなく、周りの方々を心から愛し、愛される一生にするために、この命を精一杯生き抜いてみせる。

「ねえ、大丈夫なんでしょ、おじい。生きていればなんとかなるよね。」

そんなことを考えながら、
空を見上げ、都会の輝きを見つめ、
今日も私は、祖父を想う。